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平成13年(ワ)第2870号、平成14年(ワ)第385号損害磨償請求事件
原  告  ○ ○ ○ ○外62名
被  告  小  泉  純一郎 外1名


                     準備書面(原告ら第7回)

        
                                  2003年7月25日
千葉地方裁判所
  民事第5部合議B係  御 中

                          原告ら訴訟代理人弁護士  ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                                    外10名




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(はじめに)
 本準備書面においては、先ず、憲法の規定する政教分離原則は、国家と宗教の厳格分離を定めたものと解釈されるべき事、仮に、最高裁大法廷判決の相対分離説、目的効果基準に従ったとしても、被告小泉の本件靖国神社参拝は、憲法20条1項、3項に反し、違憲であることを明らかにする。

第1 国家と宗教の完全分離
1.政教分離規定の趣旨
 日本国憲法第20条は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」(1項)、「何人も宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」(2項)、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」(3項)と規定し、さらに89条は「公金その他公の財産は、宗教上の組織又は団体の使用、便益又は維持のため、…これを支出し、又はその利用に供してはならない。」と定めている。
 この政教分離原則の意義について、最高裁大法廷平成9年4月2日判決(民集51巻4号1673頁)(以下「愛媛大法廷判決」という。)は、次のように述べている。「一般に、政教分離原則とは、国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされているところ、国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によって異なるものがある。我が国では、大日本帝国憲法に信教の自由を保障する規定(二八条)を設けていたものの、その保障は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限二於テ」という同条自体の制限を伴っていたぱかりでなく、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた等のこともあって、同憲法の下における信教の自由の保障は不完全なものであることを免れなかった。憲法は、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き右のような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至ったのである。元来、我が国においては、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであって、このような宗教事情の下で信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結び付きをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であった。これらの点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるに当たり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきである。」
 この意義については、既に津地鎮祭大法廷判決(最高裁大法廷昭和52年7月13日判決・民集31巻4号533頁)においても述べられているところであり、異論なく認められるところである。  

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 ここにおいて注目すべきであるのは、国家神道に対する警戒心である。
 即ち、最高裁判決は、「国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ」、また「明治維新以降国家と神道が密接に結ぴ付き種々の弊害を生じた」という歴史的事実を認識し、国家神道が国内をはじめアジア諸国にもたらした弊害に対する反省を立法事実として政教分離規定が設けられたことを導き出しているのである。
 政治権力と特定の宗教が、利用あるいは依存の関係で結びつくとき、個々の国民の信教の自由及ぴ民主主義を破壊する可能性が極めて高いことは、世界史を紐解いた者であれば誰でも容易に理解できることである。そして、我が国においては、戦前においては、政治権力は神社神道と結びついたのであって、これにより大日本帝国憲法下では個々の国民の信教の自由は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限二於テ」と、極めて制限的に保障されていたに過ぎず、神道が事実上国教化された結果、個々の国民の信教の自由が侵害され、民主主義が崩壊した経験があるところから、このような事態の発生を未然に防止しようとしたのである。

2 相対分離説批判 − 完全な分離は不可能か?
(1)最高裁大法廷判決は、津地鎮祭事件においても、愛媛玉串料事件においても「国家と宗教との完全な分離が理想である」と明言しているにも関わらず、多数意見は、国家と宗教との完全な分離を実現することは不可能に近く、完全分離を貫こうとすれぱ社会生活の各方面に不合理な事態を招くとして、政教分離原則は「国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが、我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。」として相対分離説、目的効果基準を採用している。
(2)しかしながら、津地鎮祭、愛媛玉串料両最高裁判決とも完全分離を志向する意見が付されており、相対分離か厳格分離かという問題は解決されてはいない。原告は、政教分離規定を厳格な分離と捉えるべきであると主張する。
 相対分離説の根拠は、憲法のいう国家と宗教の完全な分離は理想であり、これを実現することは不可能に近く、これを完全に貫こうとすれぱ各方面に不合理な事態を生じるというところにある。
 しかし、津地鎮祭判決の挙げている不合理な事態の例は、特定宗教と関係のある私立学校への助成、文化財である神社、寺院の建築物や仏像等の維持保存のための宗教団体に対する補助、刑務所等における教誨活動等であるが、これらについては、平等の原則からいって、当該団体を他団体と同様に取り扱うことが当然要請されるものであり、特定宗教と関係があることを理由にして他団体に交付される助成金や補助金などが支給されないならぱ、むしろ、そのことが信教の自由に反する行為であるといわなけれぱならない。このような例は、政教分離原則を国家と宗教との完全な分離と解することによって生ずる不合理な事態とはいえず、国家と宗教との完全な分離を貫くことの妨げとなるものと


                                                    −3−
は考えられない。この点については、愛媛最高裁判決における高橋意見が主張するところであり、全くもって妥当な意見である。
 憲法第20条3項の規定が、我が国の過去の苦い経験を踏まえて国家と宗教との完全分離を理想としたものであることを考えると、目的・効果基準によって宗教的活動に制限を付し、その範囲を狭く限定することは、憲法の意図するところではないと考えるのである。

3 社会通念基準論批判
 先に確認した政教分離規定の制定経緯やその趣旨、及び、条文の文言に忠実と言えるためには、厳格な分離が相当である。
 愛媛最高裁多数意見は、「(国家と宗教との)かかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さない」、さらに、「諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。」と、結局のところ「社会通念」を判断の基準としている。
 しかしながら、我が国において国家神道に国教的な地位が与えられ、その結果種々の弊害を生じたことは周知の事実である。憲法は、その反省の上に立って信教の自由を無条件で保障し、それを確実ならしめるために国家と宗教との完全な分離を実現するために20条の規定を設けたのであるが、信教の自由は心の深奥にかかわる問題であるだけに、いまだに国家神道の残滓が完全に払拭されたとはいい難い。また、我が国においては宗教は多元的・重層的に発展してきており、国民一般の宗教に対する関心は必ずしも高くはなく、異なった宗教に対して極めて寛容、換言すれば「ズボラ」である。特定の宗教に帰依するからといって他宗教を排他的に取り扱うことはなく、このことは、戦前、国家神道が各家庭の中で宗教というよりも超宗教的存在、「臣民」の道徳として生活の規範をなし、多くの弊害をもたらす土壌となった。宗教的感覚において寛容であるということは、それ自体として悪いとはいえないであろうが、宗教が国民一般の精神のコントロールを容易になし得る危険性をはらんでいるということでもある。その意味からも政教分離原則は厳格に遵守されるべきであって、「社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度」、「社会通念に従って、客観的に判断」というような曖昧な基準で判断されるべき事柄ではない。
 以上の点も、愛媛最高裁判決の高橋意見において指摘されているところである。

4 目的効果基準批判
(1)最高裁多数意見の取る目的効果基準が極めてあいまいな明確性を欠く基準であるということはこれまでもつとに指摘されてきたところである。
 愛媛大法廷判決多数意見は、「(国家が)宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである」というが、「社会的・文化的諸条件」とは何か、「相当とされる限度」というのはどの程度を指すのか、明らかではない。ある行為


                                                   −4−
が宗教的活動に該当するか否かを判断するに当たって考慮する事情として、「当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。」、そして、「ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。」としているが、これらの事情について、何をどのように評価するかは明らかではない。いわぱ目盛りのない物差しである。したがって、この基準によって判断された地鎮祭判決後の政教分離訴訟の判決が、同じ事実を認定しながら結論を異にするものが少なくない。

(2)殉職自衛隊員たる亡夫を山口県護國神社に合祀されたことに関し、キリスト教徒である妻が国家賠償法に基づく損害賠償を求めた「殉職自衛官合祀拒否訴訟」において、一、二審判決は、県隊友会の同神社に対する合祀申請に自衛隊職員が関与した行為が憲法20条3項にいう宗教的活動に当たるとしたが、最高裁昭和63年6月1日大法廷判決は、右行為は宗教的活動に当たらないとした。

(3)箕面市が忠魂碑の存する公有地の代替地を買い受けて忠魂碑の移設・再建をした行為、地元の戦没者遺族会に対しその敷地として右代替地を無償貸与した行為等が宗教的活動に該当するかどうかが争われた「箕面忠魂碑違憲訴訟」では、一審判決は、右行為が宗教的活動に当たると判断したが、二審判決は、これを否定し、最高裁平成5年2月16日第三小法廷判決も、宗教的活動には当たらないとした。

(4)愛媛玉串料事件においても、一審判決と原判決とでは、同じ目的・効果基準によって判断しながら結論は反対であるし、大法廷判決においても、多数意見と反対意見とでは、同じ認定事実の下に、いずれも地鎮祭判決の目的・効果基準に依拠するとしつつ、全く反対の結論に到達している。これをみても、地鎮祭判決の示す目的効果基準が明確な指針たり得るかどうかに疑問を禁じ得ないのである。
 以上のとおり、目的・効果基準は、基準としては極めてあいまいなものといわざるを得ず、このようなあいまいな基準で国家と宗教とのかかわり合いを判断し、憲法第20条3項の宗教的活動を限定的に解することについては、国家と宗教との結び付きを許す範囲をいつの間にか拡大させ、ひいては信教の自由もおびやかされる可能性があるとの懸念を持たざるを得ない。
 愛媛最高裁判決の高橋意見は以上のように述べているが、その指摘は的確である。

5 厳格な分離の基準
 以上述べたように、国家と宗教との関わりについては、原則として完全分離を貫き、例外的に国家と宗教との関わり合いが憲法上許容される余地があると


                                                   −5−
解すべきである。
 愛媛最高裁判決の高橋意見は、「完全な分離が不可能、不適当であることの理由が示されない限り、国が宗教とかかわり合いを持つことは許されない」と述べており、また、同判決の尾崎意見も、「国家と宗教との完全分離を原則とし、完全分離が不可能であり、かつ、分離に固執すると不合理な結果を招く場合に限って、例外的に国家と宗教とのかかわり合いが憲法上許容されるとすべきものと考えるのである。」との基準を示し、いずれもこの点で原告の主張と軌を一にするものである。

第2 最高裁多数意見 − 目的効果基準による解釈 以上述べたような厳格な分離説の立場に立てぱ、宗教法人である靖国神社に参拝した被告小泉の行為は明白な宗教的活動と評価され、且つ、それを禁止したとしても何ら不合理な結果を招くとは到底言えないのであるから、政教分離原則に違反することは明らかである。しかし、仮に最高裁多数意見の相対分離説(目的効果基準)にしたがって判断したとしても、被告小泉の参拝行為は違憲である。以下この点について詳述する。

1 最高裁多数意見は、憲法が定める政教分離規定は、国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきであるとし、同条項にいう宗教的活動とは、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉等になるような行為をいうものとする。

2 そして、最高裁判所は、目的・効果基準によって、ある行為が上記の「宗教的活動」に該当するか否かを検討するにあたっては、
@ 当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく
A 当該行為の行われる場所
B 当該行為に対する一般人の宗教的評価
C 当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意義の有無、程度
D 当該行為の一般人に与える効果、影響
などの諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなけれぱならないとする。

3 このような判例の流れの中で、愛媛県が靖国神社及び護国神社に玉串料等の名目で公金を支出したことが憲法20条3項の禁止する宗教的活動にあたり、また、憲法89条の禁止する公金の支出にあたり違法である旨の愛媛最高裁判決がなされた。同判決は、津地鎮祭事件大法廷判決以降、最高裁判所によって採用され続けている目的・効果基準をより明確化し、かかる基準を厳格に適用すべきであるとの立場に立っている。
 すなわち、第1に、愛媛大法廷判決は、問題となる国家機関の行為の客観的


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評価を行い、それに基づいて、一般人の評価(上記2B)、さらに当該行為者の意識(同C)へと考察を進めている。つまり、問題となる行為が、客観的に見て「宗教的活動」にあたるのであれぱ、国民の大多数の者の希望によるものであっても、慣習化した社会的儀礼にすぎない行為に転化し、およそ「宗教的活動」性を有しないものになるのではなく、あくまでも「宗教的活動」であることに変わりはないとして、評価のポイントを客観的評価に置いているのである。
 第2に、当該行為の一般人に与える効果、影響(同D)についても、「地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ本件のような形で特別のかかわり合いを持つことは、一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ない。」と判示している。この判示は、当該行為が一般人に対して、現実的かつ具体的効果を及ぼすことを要求せず、「印象を与え、関心を呼び起こす」ことで十分であるとしている。

4 具体的に述べるならぱ、愛媛最高裁判決は、国家神道の歴史的経緯を述べた総論部分から、津地鎮祭大法廷判決以来最高裁が指摘していた戦後の国家神道の制度的消滅に関する部分を削除し、各論部分において次のように述べて国家神道の歴史的経緯を違憲判断を導く重要な論拠としたのである。
 「遺族を始めとする愛媛県民のうちの相当数の者が、県が公の立場において靖国神社等に祭られている戦没者の慰霊を行うことを望んでおり、…そのような希望にこたえるという側面においては、本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できない。しかしながら、明治維新以降国家と神道が密接に結びつき種種の弊害を生じたことにかんがみ政教分離規定を設けるに至ったなど前記の憲法制定の経緯に照らせぱ、たとえ相当数の者がそれを望んでいるとしても、そのことのゆえに、地方公共団体と特定の宗教とのかかわり合いが相当とされる限度を超えないものとして憲法上許されることになるとはいえない。」
 このように、愛媛最高裁判決は、国家神道の歴史的経緯を違憲判断を導く解釈準則して用いたのである。このことは、「政教分離規定をもうけた憲法のもとでは国家神道の復活はありえない」とした三好少数意見、「国家神道が消滅して既に久しい現在、我々の目の前に小さな悪の目以上のものは存在しない」とした可部少数意見と対照すれぱ、より明らかに理解できるところである。
 尾崎意見の次の部分は、三好、可部のとる国家神道杞憂論に対する明確な反論である。
 「我々が自らの歴史を振り返れぱ、そのように考えることの危険がいかに大きいかを示す実例を容易に見ることができる。人々は、大正末期、最も拡大された自由を享受する日々を過ごしていたが、その情勢は、わずか数年にして国家の意図するままに一変し、信教の自由はもちろん、思想の自由、言論、出版の自由もことごとく制限、禁圧されて、有名無実となったのみか、生命身体の自


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由をも奪われたのである。「今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる」との警句を身をもって体験したのは、最近のことである。情勢の急変には一○年を要しなかったことを想起すれぱ、今日この種の問題を些細なこととして放置すべきでなく、回数や金額の多少を問わず、常に発生の初期においてこれを制止し、事態の拡大を防止すべきものと信ずる。」

第3 本件参拝行為へのあてはめ
1 本件参拝行為の概要
 被告小泉は、平成13年8月13日午後4時30分に、公用車を用いて靖国神社を訪れ、本殿昇殿の前に、身を清めるための神式のお祓いを受けている。 その後、「内閣総理大臣小泉純一郎」と、肩書を付して記帳し、同じく「内閣総理大臣小泉純一郎」と書かれた献花料3万円を本殿に備えさせ、本殿に昇殿し、祭壇に黙祷した後、一礼方式で参拝している。

2 本件参拝行為の外形的側面及び当該行為が行われた場所(上記第2の2@、A)
 神社神道においては、祭祀に参列し、神道の様式に従った儀式を行うことがもっとも基本的かつ中心的な宗教活動である。そこで、被告小泉の本件参拝行為の外形的側面を見るに、神道の正式な拝礼方式「二礼二拍一礼」に則ったものではないが、昇殿前に神式のお祓いを受け、靖国神社が祭神として信仰する英霊に対して深く一礼したなど、一部神道の方式に沿った行為が行われていること、正式な神道方式によらなくとも、祭神たる英霊に対して畏敬崇拝の心情を示す行為であることには変わりがないことなどからすれぱ、被告小泉の本件参拝行為は、その外形的側面にのみ着目しても、神道における基本的かつ中心的な「宗教的活動」に該当する。
 また、本件参拝行為が行われたのは、靖国神社が祭神として信仰する英霊が祀られている同神社本殿であり、祭神たる英霊に対する畏敬崇拝の行為をなす場所である。すなわち、靖国神社は、宗教法人靖国神社規則第3条において、「本法人は、明治天皇の宣らせ給うた「安国」の聖旨に基き、国事に殉ぜられた人々を奉斎し、神道の祭祀を行い、その神徳をひろめ、本神社を信奉する祭神の遺族その他の崇敬者を教化育成し、社会の福祉に寄与し、その他、本神社の目的を達成するための業務を行うことを目的とする。」と掲げるとおり、明らかに「神道の祭祀」「神徳をひろめ」「教化育成」という純然たる宗教的活動を行うことを目的としており、靖国神社それ自体が、かかる宗教的活動を行うための宗教的施設そのものである。
 そのような場所において、一部神道の方式に従ってなされた本件参拝行為は、客観的に見て、「宗教的活動」以外の何物でもない。

3 当該行為に対する一般人の評価(上記第2の2B)
 靖国神社への参拝行為については、靖国神社法案などに象徴されるように、靖国神社の公的復権を求める動きがあったことなどからして、政治家の参拝行為を望む遺族等一般国民が存在することは事実である。このように、一部の一


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般国民が、内閣総理大臣をはじめとする政治家に対して、戦没者慰霊目的での靖国神社への参拝を望み、内閣総理大臣等政治家がその希望にこたえるという側面において、公務員たる政治家の靖国神社参拝には、政治的・儀礼的な意味合いがあることは否定できない。しかし、そのような側面があるとしても、神社の祭神が祀られている本殿に昇殿し、深く一礼するという行為は、やはり、時代の推移によって既にその宗教的意義が希薄化し、完全に慣習化した社会的儀礼に過ぎないものになっているとまでは到底いうことができず、一般人が、本件の参拝行為を社会的儀礼の1つにすぎないと評価しているとは考えがたい。本件参拝行為は、一般人の評価においても、「宗教的活動」に該当するのである。

4 当該行為者の意識(上記第2の2C)
 上記のとおり、一般人の評価において、「宗教的活動」に該当する以上、本件参拝行為の行為者たる被告小泉の認識においても、それが宗教的意義を有するものであるという意識を大なり小なり持たざるを得ない。実際、被告小泉は、本件参拝行為を行う以前から、「尊い命を犠牲に日本のために戦った戦没者たちに敬意と感謝の誠をささげるのは政治家として当然。」と述べており、靖国神社の祭神たる英霊、すなわち、戦没者を畏敬崇拝する目的を明言しているのである。とすれぱ、被告小泉の認識においても、明らかに本件参拝行為は「宗教的活動」であったのである。

5 当該行為の一般人に与える効果、影響等(上記第2の2D)
 内閣総理大臣が、靖国神社という特定の宗教団体に対してのみ、本件参拝行為を行うという形で特別のかかわり合いを持つことは、一般人に対して、国が靖国神社を特別に支援しており、それが他の宗教団体とは異なる特別のもので、国によって優遇されているとの印象を与え、靖国神社への関心を呼び起こす事は明らかである。このような意味においても、本件参拝行為は、「宗教的活動」に該当するのである。

6 以上の検討からすれぱ、被告小泉の本件参拝行為が、「宗教的活動」に該当することは、何ら疑う余地もない。

(1) 本件参拝行為の目的
 被告小泉は、「戦没者たちに敬意と感謝の誠をささげる」と述べており、一面において戦没者の慰霊・遺族の慰謝という世俗的目的で行われた社会的儀礼という側面があることも否定できないが、上記第1の1で述べたような憲法制定の経緯に照らせぱ、たとえ相当数の国民がそれを望んでいるとしても、そのことのゆえに、本件参拝行為が世俗的目的で行われた社会的儀礼にすぎないものに転化するものではなく、被告小泉の本件参拝行為は、その目的において、靖国神社の祭神たる英霊、すなわち、戦没者を畏敬崇拝するという、極めて高度の宗教的意義を有することは免れ得ない。

(2) 本件参拝行為の効果
 また、本件参拝行為は、その効果において、国が靖国神社に対してのみ、本件参拝行為という形で特別のかかわり合いを持つことは、靖国神社が、国によ


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って特別に支援、優遇されているとの印象を与えるものであって、靖国神社に対する援助となるものである。

7 まとめ
 以上を総合考慮して判断すれぱ、内閣総理大臣たる被告小泉が、本件参拝行為を行って、靖国神社に深く関与したことは、その目的が宗教的意義を持つことは免れず、その効果が特定の宗教に対する援助、助長、促進になると認めるべきであり、これによってもたらされる国と神社神道とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えたものであって、憲法20条3項の禁止する「宗教的活動」にあたると解するのが相当である。

第4 結論
 以上のとおりであるから、憲法20条3項の解釈において、完全分離説に立つ場合はもとより、仮に最高裁判所の採用する目的・効果論の立場に立ったとしても、被告小泉の本件参拝行為は、憲法20条3項の禁止する「宗教的活動」にあたり、違憲である。

                              以上


    













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